2008.07.02

第36回韓国語弁論大会

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 今回の大阪出張の主な目的のひとつが、「第36回韓国語弁論大会」を見学することだった。

 しばらく前に、このブログに弁士募集のバナーを出していた。日頃お世話になっている高電社の知人に頼まれたものだったが、僕も、一度大会を見てみたかった。

 会場は、地下鉄谷町線中崎駅に近い、大阪韓国人会館の大ホール。開始時刻の15分ほど前に到着すると、すでに100人以上の人が集まっていた。

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大会が始まると、観客は200人以上に。

 この弁論大会は、1973年から毎年行われている、日本で最も歴史のある韓国語弁論大会だ。韓国大阪青年会議所(JCI Korea Osaka)の主催で、参加資格はネイティブスピーカーと過去の上位入賞者を除くすべての人。この日も、出場21人のうち、半数近い10人が、韓流ドラマなどで韓国語に興味を持った日本人だった。残る僑胞(きょっぽ:在日韓国・朝鮮人)と見られる参加者も、日本の名前の人が数名いた。日本国籍を取得した韓国系日本人のようだ。以前なら、僑胞のコミュニティは日本国籍の取得を良しとしなかったはず。運営側も、この大会を日韓交流の一環と捉えていると言っていた。時代は着実に変わりつつある。

 もっとも、運営には、在日韓国人社会のイベントだった時代の名残を感じた。来賓は韓国の関係者だけだったし、国旗も韓国の太極旗のみ。国旗掲揚・国歌斉唱は「国民儀礼」と称されており、そこには、日本人参加者の存在は考慮されていないように感じる。これまでの歴史的経緯もあり、なかなか一気に変わることは難しいのだろうが、いずれは日本の国旗も掲揚し、韓国・日本両国の国歌を斉唱する大会になることを期待したい。

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審査を待つ間、観客、出場者全員におにぎりとウーロン茶が配られた。これも、内々のイベントだった時代の名残かもしれない。キムパプとかではない辺りが興味深い。

 さて、今年の大会のテーマは、「出会い」。学習歴3年未満を対象とするビギナー部門と、それ以上の一般部門共通で、3分以上5分以内で弁論する。原稿は事前に提出するが、原則として原稿は見ずに弁じるルールのらしい。大変だ。

 中には、訪韓経験なし、学習歴数ヶ月という高校生もいたが、日本人を含めてどの人も発音が上手なことには驚いた。ビギナー部門の弁論も、ちゃんと韓国語として聞き取れる。弁論後の質疑応答では、流石に一般部門と差があったが、日本人の韓国語学習環境は、僕が留学した頃とは比較にならないほど向上しているようだ。

 強かったのはやはり僑胞の子供だ。普段から学校や家庭で韓国語に親しんでいるうえ、吸収力が違う。立派な民俗衣装を着て、国旗に向かって手を胸に当てて敬意を表す小学生。日本の教育を受けてきた僕には、やや違和感を感じる光景だったが、これが韓国の民族教育というものなのだろう。

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僑胞とは関係ない、日本人高校生 の応援団。手作りのカラフルな横断幕?が楽しい。こういう雰囲気は、いいね。

 僕が出場していたら、どうなっていただろう。今の僕の実力では、入賞はきっと厳しかったに違いない。久しぶりに、韓国語をきちんと復習したくなった。

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2006.04.18

【韓国留学まで 3】 同期の退職

「俺さぁ、会社やめるんだ。世界一周の旅に出ようと思ってさ」。

 そう言って、同期のNはすぱっと会社をやめてしまった。僕はびっくりした。自分が無理だとあきらめていたことを、彼はさらりとやってしまったのだ。Nはバックパッカー向けの本を企画したことがあり、その方面の人脈にも長けていた。でも、まさかこれほどあっさり会社をやめるとは。しかも、長年付き合っていた彼女と籍を入れ、2人で出かけるという。

 驚くと同時に、焦った。

「今さら、もう世界一周はできないな」

 と思ったのだ。

「Nと同じことはできない。何か、他のことをしないと」。

 しかし、何をするのかは全然見当がつかなかった。Nが退社しなかったら、僕はそのまま「なんとなく」会社に残っていたことだろう。それはそれで、幸せだったのかもしれないが。

 Nは、結局2000年春から約3年にわたって夫婦で世界を旅した後、今は日本でIT関連企業に勤めている。

 さて、Nの告白?から、まもない3月。
 韓国観光公社から、FAMツアーの誘いが届いた。

 FAMツアーのFAMとはFamiliarityの略で、主に観光協会などが主催し、ある特定の地域や施設を「熟知」してもらうために、旅行会社やメディア関係者を招待するツアーのことだ。

 韓国は、前年の1999年、ハワイを抜いて日本人渡航者数がもっとも多い地域となっていた。

 しかし、その訪問先はソウル・釜山・済州に極端に偏っており、全羅道、江原道などの地方を訪れる日本人はほとんどいない。そこで、旅行会社企画担当者やメディア関係者を対象に、全国の観光物件を見せてまわるFAMツアーが企画されたのだった。

 1回目は、2000年4月上旬に4泊5日で実施し、主に韓国南西部の全羅道を中心に催行。2回目は夏を目処に江原道・京畿道をまわり、3回目も企画中……ということだった。

 旅行会社でなく、メディアまで招待されるというのは当時としては珍しかった。厳しいバーター(交換条件)があるわけでもなく、韓国担当になって間もない僕にとっても勉強にもなるだろうと、参加することにした。

 ……今考えると、このFAMツアー参加が最初のきっかけだったように思う。

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2006.04.17

【韓国留学まで 2】あてもなく、貯金。

 1996年、沢木耕太郎の「深夜特急」が大沢たかお主演でドラマ化。「進め!電波少年」では、猿岩石の「ユーラシア大陸横断ヒッチハイク」が社会現象となり、この頃、バックパッカーは一種のはやりだった。

 僕は、昔から蔵前仁一のバックパッカー本を愛読し、周囲に世界一周をした友達も大勢いた。学生時代は国内に目が向いていて、ほとんど海外には行かなかったが、大沢たかおや猿岩石らを見ているうちに、「やっぱり一度は世界を見たい、できることなら世界一周したい」と思うようになっていく。

 それで、貯金を始めた。1997年暮れ頃のことだ。

 もちろん、苦労して就職した立場を安易に捨てて、後先を考えずに半年や1年のバックパック旅行に飛び出すことはあり得ない。そういう人は掃いて捨てるほどいるし、モラトリアム期間にこそなっても、仕事をする上での「経験」にはならない。

 現実には、自分がそんなむちゃな旅をすることはあり得ない。それは内心わかっていたが、「自分はいつか海外に出る」という、漠然とした気持ちは心の中にずっと居座った。

 彼女もおらず、「将来のための貯金」は全然しなかった自分だが、「世界を見るため」という動機ができると、急にお金が貯まりだした。97~98年ごろはたいしたことなかったが、99年から2000年にかけては、ボーナスには全く手を付けず、年間100万円くらい貯金していたはずだ。

 そうこうしているうちに、1998年夏、僕は海外旅行のガイドブック編集部へ異動になる。

 最初のうちは、中国やヨーロッパを担当していたが、1年ほどたった頃、韓国を担当していた部員が部署を離れた。そこで、後任として、僕が韓国も担当するよう命じられたのである。

 「何か経験を積みたい」「いつか世界に出てみたい」。そんなことを漠然と考えながら、あてもなく貯金に励んでいた頃、僕は仕事で「韓国」とかかわることになった。その頃は、韓国について担当地域のひとつという以上の興味はなかったのだが。

 さて、韓国担当を命じられてから、またしばらくたった2000年早春。僕の周囲で、とんでもないことが起きた。

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2006.04.14

【韓国留学まで 1】なんとなく、違和感。

 1996年、僕は、大学を卒業してある出版社に就職した。配属されたのは旅行ガイドの編集部。希望通りの部署だった。その出版社は、社会的にもそれなりに知名度があり、自由な雰囲気のある会社だ。でも僕は、入社してしばらくした頃から、何となく違和感を抱いていた。不満ではなく、違和感だ。

 その違和感とは、何か。

 こんなことがあった。入社1年目の秋。ある地方都市の、地ビール工場兼レストランの完成披露パーティに出席したときのことだ。

 地元選出の与党代議士の祝辞を、僕はホールの一番後ろで聞いていた。そこへ観光協会の人が来て、耳打ちした。

「くりはらさん、××先生の後に、ひと言壇上でごあいさつを頂きたいのですが」

 びっくりした。僕に、与党代議士に続いて祝辞を述べろというのだ。駆け出しの自分に、そんなことできるわけがない。しかし、東京の出版社からわざわざ記者が来たというのは、とても意味のあることなのだという。

 ついこの前まで大学生だった自分が、出版社の編集者というだけで、何の経験がなくてもこれだけの扱いを受けてしまう。それが、当時僕が感じた違和感だった。

 ふだんの仕事でも、似たようなことがあった。部署や企画にもよるが、出版社の社員は、自分で取材をしたり原稿を書くことは少ない。出版社の社員が漫画を描かないのと同じで、取材・執筆は外部のライターや編集会社に依頼することがほとんどだ。

 もう何年もキャリアを積んだ、歳(とし)もはるかに上の人たちが、「よろしくお願いします」と僕に頭を下げる。僕の方は、取材なんて一度もしたことがないのに、編集プロダクションの人たちに「指示」を出さなくてはならない。

 出版社は、新卒で入るものではないのかもしれない。出版社の編集者は、もっと社会でいろいろな経験を積んだ人がなるべきではないだろうか。

 さて、じゃあその「経験」って、何だろう。

 入社して1年が過ぎる頃、僕はそんなことを考えるようになっていた。

つづく。

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